昭和44年7月8日 朝の御理解 中村良一
御神訓
一 神は昼夜も遠きも近きも問わざるものぞ。頼む心にへだてなく祈れ。
一 神は昼夜も遠きも近きも問わざるものぞ。頼む心にへだてなく祈れ。と、次には、
一 清き所も汚き所もへだてなく天地乃神はお守りあるぞ。わが心に不浄を犯すな。というように、教えておられます。今日は、ここのところのね。えー、頼む心と、これを、信頼心と、ね。頼む心と書く、信頼心と。へだてなく祈れと。ね。神は昼夜も遠きも近きも問わざるものという事は、段々、皆さんが、よう分かって見えられたんですよね。勿論、次の清き所も、汚き所もへだてなく天地の親神様は、お守りくださってあるのだから、こちらの心に、へだてを作ってはならんのであり、こちらの心に、不浄を犯してはならんのである。二つの御神訓になりますね。ね、なかなかここの、頼む心という事が、むつかしいと思うんですね。信頼心ということ。それを信じて、ね。だから、あの、分かっておるのと、信じておるというのは、違うわけですよね。確かに、信心のさせてもろうて、天地の道理を聞かせて貰うと、神様は、昼夜も遠きもない、清きところも、汚きところもないと、分かるんです、ね。けれども、それを信じるということ。それを、信じておるということ。信じておるから、どういう事になるかというと、おー、裏表のある心も、使うてはならんことが分かる。いわゆる、陰、日向の心を持つなと、こう仰るわけが分かる。清き所も、汚き所もへだてなく、天地の神様はお守り下さってあるのであるから、わが心に不浄を犯してはならない事も分かる。ね。ですから、私共の場合は、ここんところがね、そうだと分かっておって、それを信じていないという感じがするですよね。だから、頼む心にも、やはり、隔てがある事になるのです。ね。頼む心にへだてなく祈れ。それでも、やはり、信心させて頂いておると、何とはなしに、どんな事でもお願いしなければおられない。というのが普通ですね。どんな事でも、お取次ぎを願って、えー、おかんと、何か心もとない気がする。そこで、私共はこの、おー、信頼心ということね。頼む心。おー、これを、やはりあの、作ることだと。信頼心というのは、これはあの、物に頼る、神に頼る。ただ、頼るという事ではない訳ですね、ここでは。信頼して頼むということ。ね。これはあの、んー、何か、重大な、あー、自分で問題と思いますと、やっぱり、慇懃にお取次ぎを願われる。ね。こうこう、こういうわけですからと、いうて、まあ、改まって願われるわけです。なら、改まって願っておるから、信頼して頼んでおるとは言えんのですね。例えて、まあ、ここの近所の方たち、えー、ちょっと久留米まで行くでも、ちょっとお参りをして、お願いをしてまいろうと、ね。ここのある部落の方が、先日から、久留米に行かれるから、と言うてお願いして、えー、お参りされた。ね。そしたらもう、こういう雨の中ですから、丁度、おー、でがけがお天気が良かったから、傘を持っていっていなかった。そしたらもう先生、本当に向こうの用件があって、向こうに着かせて頂いたら、お湿りがあり、帰ろうかというころにはお天気が上がり、行ったら、もうちゃんとバスが来ておるというようにもう、置いたものを取るように、しかも、このお湿りの中を縫うようにして、まあ、濡れもせんで帰ってきたと言うて、また帰りがけよって、お礼お届けされていかれたんです。ね。だから、久留米までやらせて頂きますからと言う事の中にはね。こう、お取次ぎをさして頂くものとしては、あー、実を言うたら、大変その、責任を感ずるわけなんですよ。まあ、濡れるか濡れないぐらいなら良かけれど、ね。せっかくお願いをしていったのに、事故に合うたなんていうような事があっちゃならん、ね。ですから、そこんところを先ず、その、おー、だから、あんた達は簡単に、ちょっと久留米まで、やらせていただきますけんち言うて、お願いしよるばってん。あのね、お願いをするという事は、あの、無事に行って、無事に帰られるという事を信じて、お取次ぎを願わせてもらわにゃいけんよと。だから、簡単なこっじゃないですよと言うてから、話すことです。ね。はー、今日は止めときなさい。もう、今日は行かんが良いですよと、言われたら、「はい」と言う心で、お願いしなきゃいけんですよ。先生が行くなち言いなさったっちゃ、いいんや、今日は、しゃっちもち久留米に行くといったような事ではいけんのだと。ね。今日は、久留米にやらせて頂きますと。そうですか。今日は、大体行きなさらんがいいですよ、明日がいいですよと、言われたら、「はい」とこう、引き下がる、私は、その心、ね。また、それほどに、その、御結界の、に、お取次ぎを願う。そのお取次ぎの働きというものを信じさしてもらうところから、お願いをするという心。それが、まあ、私は信頼心だとこう思うのです。ね。だから、そういう信頼心を、私はあの、段々、んー、本当なものへ、して行くために、その、せっかく、たとえば、清まった心にね、朝のご祈念のときお参りをして、心が清まった。あること、あれもこれも、いろんなことが合点が行った。ね。その心にです、私は、不浄を犯すなという、不浄を犯してはならんという精進が、そこからなされていかなきゃいけんと思うのです。せっかく、清めて頂いたこの心を、ね。汚しちゃならんと。そりゃ、汚れます。ね。いつの間にか汚れてますよ。いや、一日たちますともう、やはり、風呂にはいらにゃんぐらいに汚れておりますよ。身体もですよ、心も。けれども、やはりそこに精進するということ。ね。そういう、私は、精進がなされていく。そして、えー、ね。御理解六十二節にあります、最後のところにね。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ、にわかに先生にはなれぬぞと。ね。神信心も手習いも同じことだと。この、一段一段進んでゆくということが、どういうことかと言うと、今日、この信頼心というものを、段々、本当なものへ、ね。本当なものへとして行く。そこには、不浄を掛けてはならない、その心を汚してはならないと、一生懸命に努めるところから、信心が一段一段上がって来る。手が上がってくるように、一段一段進んでいくのじゃと。にわかに先生にはなれない。ここんところをですね。にわかに先生になろうとは思わんけれどもね。にわかにおかげを頂こうという心が、お互いの心の中に占めてるんですよね。もう、一番信心の初めのころから、その事だけは、自分の心から取れてないのですね。言うなら、ぬれ手で粟のつかみ取りのようなおかげでも、頂けるものなら頂きたいというような願いを持って、お参りをして、しかもそれが、三年も、五年も、十年も、その心が続いておるんです。ね。久留米にやらせて頂きますと言うてお取次ぎを願う。なるほど、置いたものを取るような、このお湿りの中に、傘も持たずに行って帰ってくる事が出来るほどのおかげを受けたらです。ね。なるほど、神は、昼夜も遠きも近きも問わざるもの、清き所も、汚き所も、へだてなく守ってくださってあるという、その事実を私共が体験したらです。ね。その神様、その事実、その神様をです。もっともっと、本気でわからにゃ。お取次ぎを頂いてやらせて頂いたにもかかわらず、向こうでは、例えばほんなら、雨に濡れて帰ってきた。行ったけれども行き損じゃったと、いうような事が、ある中にもです。不浄をかけてはならん。それが信心なんだ。ね。
昨日も、昨日は総代会で、えー、皆さん、熱心に信心の共励がございましたが、えー、久富勇さんのお話が出てました。あっちも、昨日は、あー、企画の、前の晩の企画のことの、おー、伝えなさらなきゃならん用件があったから見えとりました。それが、例えばほんなら、お参りをして来よって事故を起こした。その事を、先日の久留米の共励会で、えー、話されておる。たまたま、その日丁度、岡崎さんが、おかげを頂いておった。そして、岡崎さんが、とにかく、久富さんお話を聞いてから、もう頭が上がらんごと有難いと思うた。信心ちゃ有難いものだなあと思うたち言う。ね。いうならば、泣き面に蜂というようなところを通っておられるのにです。ね。あれは神様が、神様から、事故を起こさせて頂いたんだと頂いておられるち言う。だから、頂いたんだから、有難く受けるのは当たり前だというような受け方。いや、その事に対してお礼を申し上げとりますという、そのお話に対してですね。もう、ただただ、恐れ入ってしもうてから、信心ちゃ有難いと分かったと言うて、昨日、岡崎さんが話されておるんですよ。だから、そこのにきが、そういう風に出来てくるようになるという事がです、ね。だから、私が言うんです。勇さん、また、あんたがそげん言いよろばってん、ほんなこつ、ずーっと、心の底の底を叩いてみると、まあだまあだ、私から見ると、いっちょん、すっきりと垢抜けしとらん、本当に神様にお礼を申し上げとるとは思われない。先日からも、そのお礼というわけでしょうけれども、本当に、いー、やはり、その事に心を込めてのお礼のお届けがあっとります。ね。だから、形の上においては、そうだろうけれども、私はね、まだ、すっきりとしたものが、ないとして、もう少し、本気で精進せにゃいけん。
むかーし、あの、んー、東海林太郎が、歌ったあの、赤城の子守唄と言うのがありますね。あの文句の中にね。泣けば烏がまた笑うというところがあります。泣けば烏がまた笑う。昨日も、善導寺の原さんが、ここで、朝の御祈念の後にお届けをされるんです。私共はもう、本当におかげを頂いておる。もう、迂闊なぐらいにおかげを受けておる。けれども、世間では、こう言うておる。というのです。隣の、やっぱりここにも、時々お参りななる、酒井さんというお豆腐屋さんがありますが、が、原さん、あーた方ん事をこげん言いよりなさるですよち、世間の人達は。はー、もう、あがしこ信心しよりなはっとに、千恵子さんのご主人が亡くなられた。そして、あーた、こんだ、恵子さん嫁ってきたのにあーた、この頃から、お母さんが亡くなって、また、弟さんが亡くなっちゃるそうじゃないですか。信心しよって、どうしてあげなこっじゃろか、と言うて、いうならば、笑っておりますよというのです。ところが、原さん自身としてはね、それを聞いて、もう、迂闊なぐらいに、その一言一言の中におかげとして頂いておられますからです。はー、ほんに、世間の人は、そげん言いよりなさるかも知れんですねっと言うような受け方で受けたと、こういうのである。もう、その都度都度に、はー神様のお働きの中にあってるんだなと分かるわけなんです。本当におかげということが、それは、金光様の信心しよりゃ、あんた、死なんちいうわけ、死なんどんするならおおごつばの、金光様の信心しよりゃ、死にもせん、怪我もせんちいうなら、とても、おおごつ。ね。金光様の信心ちゃ、死にもすりゃ、怪我もするけれども、その受け方が有難いとですよ。金光様のご信心はと。例えば、言い訳はするなら、出きん事はなかわけですけれど、言い訳もせんで良いくらいに、こっちはおかげ受けておるわけです。なんと神様のお働き、なるほど、その事は悲しいこと。苦しかったことだけれども、その、悲しかったことよりも、もっと有難いものを身に付けて、おかげを受けておるということ。なるほど、神ながらな事なんだと信じていきよるということ。ね。、だから、そこに、なら、言い訳をする、もう、言い訳もせんで済むくらいに、これらおかげを受けておるということを、昨日、お届けされておるんですよ。ね。そして、例えば、ね。人の口には戸は立てられん。先は知ってはおらんぞと言うところが、段々信じて分かっていかれておるわけなんです。人がどういう風に、例えば、ね。笑うても、そしっても、ね。人は先のことは知らんのである。先のことは知ってはおらんぞと、世間の口には戸は立てられん。それで、とやこう言い訳をしたり、どうこう言うことはない。世間の口には戸は立てられんのだから、言うものには言わせておけ、同時に自分の心の上には、先のことが分かっておる。それが、おかげの元になることを確信しておる。そこんところがね、私は、信心は有難い、尊いと思うんですよ。それが分かっていくという事が。ね。ところが、そう、分かっていきながらもです、ね。たとえば、その歌の文句じゃないけれども、泣けば烏がまた笑うであり、ここで悔やみよりゃです、ここで泣きよればです。また、世間の烏共が、どんなに言うて笑うやら分からんから、頑張っとりますというのじゃいけないということ。ね。ここで泣いちゃ、また烏が笑う。ここで悔やんじゃ、はー、あれだけの信心しよござってから、と言うてです、ね。おかげおかげち、言うござるけども、心のそこじゃ暗い、本当に、えー、悲しみござる、悔やみござる。と、私が、言うものであってはならない。ね。ここで悔やんでは。ね。また、烏が笑うから、泣かんのだ、悔やまんのだという信心ではなくて、そこのところをです、私は、先のことは知らんぞと仰ることを、私共は、先のことが分かっておる。確信を持っておる。ね。これがおかげの元になると、確信しておる。そこに、私は、信心の、おー、素晴らしさというものがあるとこう思う。ね。
今朝、御祈念中にあの、テレビであの、どんどんくじらという人が出よるでしょうが、この頃。頭ん上手ばこうする。前武さんと一緒にでよるですね。あの、ようく私も見ます。めがね掛けたおじさん。どんどんくじら。ね。四神様の御教えに、竹の筒には、ね。ぼうふらが湧くとおっしゃる。竹の筒に水が溜まったような信心。ね。竹の筒には、ぼうふらが湧く。大海のような信心しろと。大海には鯨が棲もうがとおっしゃる。小さい心、ね。これでは、頂いたところで、棒振りぐらいのおかげであると、大きゅうなれ、大きゅうなれ、大海のような信心させてもらえ。そこから、大海には鯨が棲むようなおかげがいただけるぞと。その大海のような信心もせずにです、鯨のようなおかげをどんどん皆さん受けて行ったら、どういう事になるだろう。ね。そーらもう、金光さんの信心始めたら、お商売がどんどん繁盛するばっかり、金は残るばかり、瞬く間に、立派な普請ができた。と、言うようにです。私はおかげをいただいたなら、どういう事になるだろうか。私は思うですけども、ああいう、いわば、タレントの、人気タレントなんかの場合なんかはですね。もう、それこそ、一時は、皆さんが、あっというような、その、流行いたしますけれども、あとは、どこに行ったじゃい、もう、名前すら忘れられるくらいなのが多いようにですね。あっという間に消えてしますのです。どんどんくじらでは。ね。それを知っておりながら、その、どんどんくじらを、何時も心の中に思うておるわけです。できるなら、濡れ手で粟のつかみ取りのようなおかげも頂こうというような根性が信心の心の中に、お互いがあるのである。これではね、いわゆる、頼む心に、が、一段一段、私は、進んでいかないと思うんです、これでは。ね。昔は、本当あげなおかげ頂きよったばってん、この頃頂だかんごとなったちいうような結果にしかならんのです。昔、おかげを頂きよった事は事実である。現在おかげを受けられなかった。一段一段と信心が進んでいない。頼む心、信頼心というものが、一つも進展してない。進んでないわけです。ね。神信心も、手習いも同じこと。一団一段進んでいく、一段一段進んでいくことのためにはです。私共が、どうでも、ね。信頼心が、いよいよ、ね。頼り心というのと違いますよ、ここの信頼心というのはね。神様を信じきって願うということなんですよ。そういう心を、日々頂かせて貰うて、そういう心がね、ね。そういう心に不浄を犯さん修行というか、そういう精進。そこでです、毎日毎日が、ね。昨日も、おかげを受けたがです。今日もまたです。ね。また、昨日できなかったら、昨日できなかったことに、取り組ませて頂きますという姿勢がいる。ね。今日、頂くご理解からいただいた、そのヒントを生かしてです。今日一日の上に、また、その事を持って信心の稽古をさして頂きますという、私は、信心の体得と言うものがね。出来て行かなければ駄目だと思う。
私は、昨日、ある方のお取次ぎをさして頂いてですね。今日もどうぞ信心の稽古をさして下さい。その、私が、今、言いますような意味合いにおいての、お届けがあったらですね。あの、今まで、なんか、お粗末御無礼を、心へ感じておった、心に不浄があった。その、不浄と思われるようなものがね。すーっと消えていくところを頂きましたよ。今日の心で良い、ね。心に不浄を犯すなと仰っても、人間生身のことであるから不浄を犯しますと。清い心を願いながら、美しい心を願いながら、はー、今日は、これで行くぞと思いながら、いつの間にか汚れておる。けれども、またその翌日にです。また、その事に取り組ませて頂きますという願いにはです。もう、その不浄が消えていきよる。はー、本当に、神様っちや、大体そういうお方なんだと。もう、昨日の汚したつは、許さんぞと仰るような神様じゃないという事なんです。今日また、新たな、更な心でです。今日もまた、この事に取り組ませて頂きますと言やあ、今までの不浄は、いわばもう、ご破算になっていきよる。そこにね。更な信心、更な、いわば、信心体験と言うものが生まれてくるという事を思うのです。
昨日の、総代会から、前の日の企画で色々取り決められた、あー、実に、今度の企画は、あ-、それこそ、おー、企画性にとんだですね。その企画の、おー、要領のいい会が行われております。昨日、総代さんがたも、それを、本当に、あの喜んでおられました。こういうようなあり方で、企画がされる。それに、ほんなら、第一、総代が、先ず、それに奉賛さしてもらわなければいけん。その企画の中に、さまざまな、あー、沢山な会合、信心の共励会合がございますが、ね。その日の朝の御理解を基にして、信心の共励をさしてもらおうと思う。だから、たとえば、今日が菊栄会だとするならば、その、その朝はもう、菊栄会の者が、頂かなければならんことが、朝にちゃんと、お話の中に出ておるんだと信じて、それを信頼して、その事に取り組もうと、いうことなんですね。だから、昨日の朝の御理解は、もう、総代の一人一人が、本当に良く分からなければならない事であるとして、その、昨日の総代会の終わってから、もうそれが、十時ごろからですもんね。お話し合いが済んで後ですから。十時ごろから、私も参加させてもらいましたが、そのテープを、丁度、三十分に渡っての、テープを聴いて、そしてその、テープの中から、それぞれ、頂どころというものを、発表しようという事になったんです。ところがです、私は、その何時ものことですけれどもね。いつもの事ですけれども、私は、あそこで一日皆さんが、あー、お参りをしてきては、御理解をテープで頂いておられます。ですから、御結界でも何回となし、繰り返し頂くわけなんです。繰り返し繰り返し頂きながら、私、有難いと思うことはですね。もう、私自身がね、もう、恍惚として頂いておるということですよ、御理解を。もう、聞き取れてしもうとるというわけです。もう、そうどこじゃなか、そうどこじゃなか、そうどこじゃなかという事ばーっかりでですね。結果に、答えが一つも残ってないち言う。ただ、いわば、あまりにもご理解が素晴らしいち言うことです。こら、私自身がそうなんですよ、ほんと、毎日。ですから、お互いが、こういう素晴らしい、たとえば、御教えを日々頂いておるのにです。どうして信心が、こう進まんのかということが問題になったんです。ね。どうもその、合楽の御理解は、あまりにも噛んで含めるようにある。ね。しかもそれが、もう、何というでしょうかね。本当にあの、神様が、あー、もう、分かってくれよ分かってくれよと、おー、言うようなその、思いの中に、御理解を説いておって下さる事をよーく感じるですね。ね。それで、昨日のご理解の中にありました、最後のところにございましたようにです。神様がおかげを下さる。その事はもう、絶対なもの。そこんところを信頼する。ね。そこで問題は、私共が、大きくならなければならないということ、ね、最後に。ね。神様が、ね。大きな立派な願いを、それこそ、どんどんくじらのような、くじらのようなおかげを、ちゃっと用意して下さっておるならです。ね。いわば、大人物の着物を、ちゃんと仕立てて、着せたいばっかりに、もう、仕立ててあるのだけれどもです。こちらが、まあだ育ってない、小さいから、頂いたおかげで、かえって、難儀をするというようなことがあってはならんから、大きくならせて頂けという事に、えー、お互い焦点を置こうというような話し合いで、大体済みました。ね。それがどういうことかと、ほんなら、信心が育っていくとは、どういうことかと。ね。という事は、今日の言葉と、信頼心です。ね。いよいよ、信じて疑わない、その信頼心が、しかもそれがね、一段一段、強うなって行くということ。ね。それは、私共が、生身を持っておりますから、ね。わが心に不浄を犯すなとあるけれども、やはり、不浄を犯していきますけれど、汚していきますけれども、それがまた、次の新たな信心になってまいりましてです。今日もまた、教えに本気で取り組ませてくださいというような願いを持てば、今までかかっておった不浄がこう、消えていくような思い。段々汚れんですむ。光を増してくる。ね。いうならば、信心が、段々、一段一段と進むにしたがって、わが心の中に、ね。有難いという心が強うなってくると。われとわが心が段々拝めるようになってくると。ね。そこのところに、楽しみをおかなければならんのに、ね。どんどんくじらを、何時も心の中に置いたんではです。ね。よし、それは頂いても、いいですか、よし、それは頂いても、そら、人気タレントのそれのように、また、いつ消えたやら分からんようにして、消えるもんだということです。私共の心の中にです。ね。濡れ手で粟のつかみ取りのようなおかげをです。ね。なら、そこで私が、今日思うのに、この信頼心。神様を信じきっての生活が段々出来るようになってくる。ね。そこからです。例えばですね、どういう中にあってもです。昨日、原さんのお届けじゃないですけれども、そう、ほんと、尻から見たら、ほんと自分な、不幸の中にあるとたいと。他所から聞いてから思うたぐらいなんです。自分は、それをおかげと思うとるから、いっちょんそれを、不幸なこと難儀なことと感じていなかった。他所から、こげな話があよるばいと、聞いてから、ほんなこと、今、自分かた一門の上には、こういうお取り払いが始まってるんだ、こういう、普通で言うならば、泣きの涙のときであるけれども、それが、ありがた涙のほうへなって行きよるという事は、なんと有難いことかという信心。しかも、それがですね。悔やめば、また世間のものが笑うから悔やまん。泣けばまた烏が、泣けば烏がまた笑うから、泣かんのだというようなものではなくて、ね。心のそこから、それを有難いというものは、この信頼心が強うなってくるから、おかげになる。これがおかげの元になる。確信しているから出来るんだと。ね。そこで、私は思うんです。ね。お互い、日々信心の稽古をさせて頂いていくうちにです。ね。一つ、本気で、このね、人相が変わるくらいのおかげを頂こうじゃないかということです。どんなに心に、ほんとう、ね。一つも悔やみはおりません。一つも悲しみはおりませんと言うても、何とはなしに、心が、顔色が悲しい顔、寂しい顔、なら、まあだ、ほんなもんじゃない。鏡を見てみて、何とはなしに、ふくよかになって行きよるなあ。顔のつやが良くなっていきよるなあと。自分ながら、自分の顔にです、惚れ惚れとするくらいなです。人相が変わっていくほどしの、一つおかげを頂こうじゃないかと。私は、今日はみんなさんに、それを提唱したい。こら、絶対です。あのね、大変難儀な問題を、もうほんとにもう、もう、本当に悔やまにゃおられまいといったような難儀な問題を持ってくる人、きたり、初めて参ってくる人たちがですね。四、五日参ると、もう人相が変わりますからね。こら、絶対変わるです。心の中に、何とはなしに安らぎが出来るんですね。こら、おかげが受けられるぞといったような、かすかな見通しが出来るんですね。ところが、それから先が、ごっとりいかんですね。それが、本当の自分の人相になってしまうまでがです。ね。私は大事だとこう思うのです。皆さん、日々、自分が悔やみ顔になっちゃおらんか。ね。苦しい顔になっちゃおらんか。ね。本当に信心さして頂くようになったらです。十年と信心が続いたら、われとわが心をまつれと仰るが、自分で自分の心が拝みたい。ね。自分の面相というものがです、器量よくなかったっちゃ、何とはなしに有難い面相になっておる。これが変わったら絶対なんです、これは。ね。私は、頼む心にへだてなく祈れという、その頼む心。信頼の心。ね。その信頼心が、段々、段々、本当なものになってきて、どのような中に当たっても、どういう事に直面してもです。ね。それは、信心しとっても、どのような事でもあろうけれども、それがおかげの元になると、確信できる信心。ね。お互いが一つ、どんどんくじら的なですね。もう、ね。直ぐ、頂いても泡のように消えていくようなおかげを心の中から、一遍、一掃して、ね。一段一段信心が有難うなってくる、おかげが、信心が分かってくるというおかげを楽しみに信心させて頂くなら、必ず人相が変わる。私はそれを思うんです。ね。お互い、そういうおかげを頂きたい。
今日は、えー、この御神訓のなかから、とりわけ、信頼心という事について申しました。ね。その、信頼心にです。私はこの、不浄を犯すなと。不浄をかけるなと。ね。せっかくの清まった心を、ね。えー、また、あー、我情我欲で汚すような事があってはならんじゃないかと言うて下さるけれど、本気で、私共が、確かに朝は思うた。もう、今日も、本当に、えー、この清らかな心で一日を過ごさせてもらうぞと、こう思うた。それが大事なんです。ね。そういう、例えば、あー、姿勢を持ってですね。えー、信心を、一段一段、それこそ進めていきたい。ね。そこから、頂けれるおかげ。いや、どういう事かと言うと、なるほど、神は昼夜も遠きも近きも問わざるものぞと。または、清き所も、汚き所もへだてなく天地の神はお守りあるぞという事を分かるのではなくてです。いよいよ、信じ切らせて頂けれる信心が、そこから生まれてくるんですよね。どうぞ。